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森聞きという“作品”

先日、森聞きという映画を観に行って来ました。

この森聞き。

自主上映で行われているそうなんですが、お世話になっているクライアントさん達がつくるグループが主催されたものなんです。

自然と手作りを愛する皆さんらしいイベントでした。

映画は、

4人の高校生が、それぞれ日本各地の山村に暮らす「森の名人」と呼ばれる老人たちを訪ねます。
人生の岐路に立ち、迷っってしまったり、人生の意味を見失ってしまっている若者たちは
森の名人から、人生を、生きるということの意味を学んでいくのです。

ドキュメンタリーなんですね。

ドキュメンタリーなんで、娯楽性なんてほとんどありません。


地味です。

地味ッ!

だが・・・・そこがイイ。



序盤の高校生の言葉の軽さ、いや、否定しているんじゃないんです。

人生や社会を悲観している若者の姿をありのままに切り取っているなぁと思いました。


ある意味でアンニュイな、ある意味で全力でないことがカッコイイ!みたいな・・・ね。


ある高校生は冷静に世の中を批判します。

ある高校生は流れに流されるままを嘆くことなく話します。


どんなに小難しいことを言っていても、そこには重みがないんです。
重みがないということは魂が無いということ。


社会が・・・、世の中が・・・。


この感覚はなんなんだろうと上映中ずっと考えていました。



作中、どうしてこの仕事が好きか?と老人に問うシーンがあります。

老人は答えます。


「好き嫌いでするもんでない。」



あ、これだ。

好きとか嫌いとかじゃない。

ただ、今を生きること。

今を全力で生きた結果が、あの老人たちの奥深く、
そして茶目っ気のある深い笑顔のなんて素晴らしいこと。


「今を生きる人」には迷いがない。

森が、木が、自然が、理由を求めずただこの瞬間を生きているように・・・

僕らもまた、今を生きる同じ生命なんだ。




生きる意味を見つけられず、今を生きることが出来ずに生き苦しさの中にいた若者たち。

自分探しと言って旅に出る人は多いけれど、
自分を見つけて帰ってきたという話は聞いたことがありません。


ただ自分で道を拓き、自分で自分の人生を確かに歩みたい。


こんなにも簡単な願いを私たちは見失っているのかもしれません。

今この瞬間も、私たちは確かに自分の人生を歩いているはずなのに。

あまりに便利になってしまった現代に生きる私たちは、そんな事すら忘れてしまったいるのでしょう。


私たちもまたあの高校生と同じ迷いに生きているのかもしれません。




それにしても、作中の音楽が最高!

何度も何度も歌われます。






「僕らは霧の中で迷っている」









映画も良かったんだけど、何より素敵だったのは上映後に明るくなった館内にありました。


それは、来場している人たちとスタッフの笑顔。


作中のあの老人たちに匹敵するような笑顔。

子どもも、大人も、若者も・・・。

みんな屈託の無い、本当に素晴らしい笑顔。

「今を生きる」笑顔でした。



$ふるべゆらゆら、ゆらふるべ     spiritualityと“こころ”の約束





普段は「誰が使うの?」と思ってしまうような、
大自然の中にあるとある田舎のホールが・・・生命を吹き返したように賑やかになっていました。


僕にとって、この風景、今を生きる人たちの笑顔に出会えた事こそが最高のドキュメンタリー。

「森聞き」という素材を最高の人たちが彩って作り上げたこの日のイベント。

全ての人が、この日「人生の名人」でした。



この日の全てが僕にとっての「森聞き」。

最高の「森聞き」でした。




$ふるべゆらゆら、ゆらふるべ     spiritualityと“こころ”の約束





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講演会に呼んで頂きました。~育児は育自~




ふるべゆらゆら、ゆらふるべ     spiritualityと“こころ”の約束



市内のとある幼稚園の母の会が主催される勉強会に講師として招いて頂きました!

多謝ッ!



「良い子ってなぁに~みんなで学ぼう!育児と育自」と題して2時間ほどお話をさせていただきました。



「育児は育自」という言葉はよく耳にします。

でも、その意味の深さはなかなか理解されてないのではないかと思います。


身体の不調や気持ちの乱れは密接な繋がりがあります。


仕事に没頭したり、何かに頑張るというような、一見すると『良いこと』に見える行為でも

心の奥深い所で怒りや恐怖を抱えていて、それが原動力となっていることが多々あります。


表向きは『良いこと』なのですが、その根底に怒りや恐怖があるとするならば、そこには平穏はありません。


いつまでも勝ち続けないと不安・・・と云うことになってしまいます。

これって本当の幸せではないですよね。


その恐怖や怒りは幼少期に植えつけられることが多いのです。

そして、その恐怖や怒りは親自身が持つ“怒り”や“恐怖”を受け継がせてしまっているのです。


良い子であるという事は

「幸せな人生を謳歌することが出来る、常に幸せを感じる心を持った子ども」だと思います。



条件付きの幸せに意味はありません。



良い子にすると云うことを見つめた時に、親自身の怒りや恐怖・・・未熟さが顕れます。


それは親自身が本当の意味で幸せになるために、

また親自身がどこかに忘れてきた大切なものを子どもたちが教えてくれていることでもあるのです。


親の自立と自律、親自身の幸せなくして、子の幸せはありません。



育児は育自。


かなりヘヴィーな内容を2時間で突っ走りましたが、最後まで聞いていただいたお母さん方に感謝です。


私達も良い子になるよう、今此処にある幸せを謳歌できるようにしたいものです。




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八海山 

八海山に峰入り行に行ってきました。

横浜でのクライアントさんの指導もあり、強行軍での日程でしたが何とか無事に満行することができました。

院や私自身をとりまく環境が激変する中、迷いを持ち日々が続いていました。
今回の峰入りでは、その辺りに渇を入れられたような気がします。

意を決して、ますます接骨院色を薄めていくことになると思います。

体(物質)だけを診ることの虚しさに気がつきながら、資格や過去の現世的な成果に自分の中にまだまだつまらないプライドや執着があったことを浮き彫りにさせられました。

いろいろな事を言い訳にして、裏メニューのようにしてきた治療。

この迷いの世の中で人を診るということ。
もう隠さずに進めようと思います。

経済的な不安はもちろんつきまといますし、まだまだ未熟な自分を見せ付けられる日々ですが新しい一歩を踏み出そうと決意しました。

道を求めれば、準備ができたときに道は拓かれる。

そう八海山は教えてくれました。





「生きると言うことは苦しむということだ」

そうお釈迦様が仰ったように、この世は苦しみに満ちています。

苦しむ為に生まれてきたのではないかとさえ思ってしまうこともあります。


しかし、苦しむからこそ気がつくことがあります。
苦しむからこそ、何が大切なのか知ることができます。
苦しむからこそ、何を目的に生きていくべきなのかを知ることができます。

苦しむからこそ成長があり、苦しむからこそ感謝があるのです。
苦しむからこそ、幸せに至る道があるといってもいいのかもしれません。

苦しみから逃げようと悩み迷うのではなく、苦しみさえ謳歌したいものです。


お釈迦様の真意は

「生きることは正しい幸せに至る道である。」

その意味で、苦しみなどないんだよ・・・ということなのかもしれません。



苦しみの末に、何を求めるのか?

それは本人の意識や縁によるものでしょう。

しかし、せっかく頂いた命。

苦しみを学びにして、成長して本当の幸せに至りたいものです。

だからこそ、この世の中に悪いことはひとつもないのです。




全てを承知し、自ら選んで生まれてきた命を祝福しましょう。



共に歩み、共に苦労し、共に命の灯で世の中を照らしましょう。



私たちもいつか生まれてきた命。






八海山、薬師岳の神像は決意の目でどこまでも青い空を見据えていました。




ふるべゆらゆら、ゆらふるべ     spiritualityと“こころ”の約束
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